天からの封書を開けよ

どうでもいい日常の中から捻り出して綴っていきます。

キャンパス

どこかの企業が大学のキャンパスを模して社屋を設計しているとか、街をキャンパスに見立てて市民大学をつくるとか、有形無形を問わずキャンパスというものは自宅から通う場という意味を持つかのように幅広く用いられている。言うまでも無く自分は大学のキャンパスに通っており、つまり本物のキャンパスに通えるわけだが、本来キャンパスに通うことが無い人も通うところをキャンパスに例えるということは、キャンパスって特別な場所であり特別な意味を持つのだと思う。キャンパスに模したり見立てたりするということは、いかに大学のキャンパスがありとあらゆる可能性を備えた場所であるかということが分かる。各大学が独自色を出す大学のキャンパスはこの点で高等学校や小中学校と異なる。

大学1年の頃、「伊都キャンパスを科学するI」という講義を履修したことがある。九大始まって以来の大事業である伊都移転を自ら学ぼうとする学生に単位を与えないはずがないという不純な動機を含んでいたが、そのレポートに「キャンパスとキャンバスって発音が似ているだけじゃなく、中身も似ている。一度描いたら/建てたら修正が効かない、でも完成したら唯一無二の素晴らしい作品となる」旨書いた覚えがある(レポートのテーマは覚えていないけど)。この考えは今でも変わらない。「一度建てたら修正が効かない」の部分は、すでに当時から噂されていた伊都キャンパスの不都合な点を皮肉ったものである。

今、キャンパスを設計・建設している人たちはどんな気持ちでやっているのだろうか。計画推進室のWebサイトも随分前から申し訳程度の更新しかしないし、当初掲げていたマスタープランも置き去りになっている気がする。最近はその場しのぎやその場限りの設計・建設がされている気がする。

そして相変わらず伊都キャンパスしか推さない九大の姿勢にはウンザリするところがある。「伊都キャン」「伊都キャン」うるせぇんだよ。総合大学だったら総合的に施策に取り組んで見せて欲しいところだ。移転過渡期だからという理由に起因しない、未完成感・未熟感がしてならない。

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